この商品をお持ちですか?
マーケットプレイスに出品する

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません 。詳細はこちら
Kindle Cloud Readerを使い、ブラウザですぐに読むことができます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
Kindle化リクエスト
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
この商品を買った人はこんな商品も買っています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.7
星5つ中の4.7
6 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年11月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
良かったです❗でも、結末は今の人類を物語ってるように感じました。
2021年7月30日に日本でレビュー済み
永井豪を、三浦健太郎「ベルセルク」、栗本薫「魔界水滸伝」、宮崎駿「風の谷のナウシカ」(原作・漫画版の方)のあとで読むのはなかなか複雑な感懐を起こさせる。
単に、このにわかが怠惰ないし無知だっただけだが…。
栗本薫(1953-2009)は永井豪より8歳年下で、永井豪が「魔界水滸伝」に描いたイラストを見て「ああ、そうそう、私の書く怪物はこういう風になっているのよね」とあとがきで書き、主人公の一人を「涼」と名付けているぐらいだが、それを栗本薫が2009年に物故して10年以上経過して「もしかしたらこれは影響を受けていたのかしら」といまさら思ったり、その栗本薫へのオマージュを公言していた三浦健太郎(1967-2021)が今年(2021)、栗本同様、代表作を未完のまま旅立たれたあとで、それらに先駆けて「魔」「神」の葛藤を描いてきた永井豪が「デビルマンサーガ」を2020年に完結させたりしている現実を見るという事でもある。
その1990年代には宮崎駿(1941-)は「ナウシカ」(マンガ版)で、世界を改造する人類の業を描き、また庵野秀明の「エヴァンゲリオン」が1996年に公開された。
より錯綜した世界観によって、永井豪の世界観も相対化されたさらに20年後にその業績を読み返すと、内容としての魔と神の二項対決は率直に言って単純に思われるのはやむを得ない。
時代の趨勢がそうした絶対的な対決では解明しきれないと感覚の中で生きている。というよりも(言いにくいが)その時期からすでに永井豪の世界像は、すでにのりこえられていたもの、という見方をされていたのではないか。
神魔二項の対決を継承した「ベルセルク」が結論を提示しないまま中絶し、本人の「デビルマン」に続く一連の著作も、個々の物語の決着はともかく、神であれ魔であれ、勝利や敗北では説明しきれない、自分の中の神と魔を乗り越える、とか、そうした対決を読者=筆者の自分の中で昇華させる結末には、永井豪もたどりついていないように見受けられる。
その相対化された後世の視点で見ると、永井豪の世界観は単純であり、力強い善悪対決があるものの、個別の作品で神が勝とうが悪魔が勝とうが、それは試合の結果にすぎず、問題は、それを行う自らがそれをどう考えるかを思わせるか否かが永井豪の持ち味で、(ベルセルクはもっと視点が退いているので純粋に物語として眺めていた)そしてそれらの後続の作品も「デビルマン」の象徴的な美的完成には及んでいない。
だが、それは一度でも古典と普遍に達されたのだから、それ一作でも十分な達成と思っているが…。
という訳で、この作品の結末はネタバレるので書きませんが「これが望んでいらした結末だったのか」と満足半分、拍子抜け半分、といった所だろうか。それとも、これが永井豪の持つ人間観であるとしたら、なかなか味わい深い結末ではあるのだが。
単に、このにわかが怠惰ないし無知だっただけだが…。
栗本薫(1953-2009)は永井豪より8歳年下で、永井豪が「魔界水滸伝」に描いたイラストを見て「ああ、そうそう、私の書く怪物はこういう風になっているのよね」とあとがきで書き、主人公の一人を「涼」と名付けているぐらいだが、それを栗本薫が2009年に物故して10年以上経過して「もしかしたらこれは影響を受けていたのかしら」といまさら思ったり、その栗本薫へのオマージュを公言していた三浦健太郎(1967-2021)が今年(2021)、栗本同様、代表作を未完のまま旅立たれたあとで、それらに先駆けて「魔」「神」の葛藤を描いてきた永井豪が「デビルマンサーガ」を2020年に完結させたりしている現実を見るという事でもある。
その1990年代には宮崎駿(1941-)は「ナウシカ」(マンガ版)で、世界を改造する人類の業を描き、また庵野秀明の「エヴァンゲリオン」が1996年に公開された。
より錯綜した世界観によって、永井豪の世界観も相対化されたさらに20年後にその業績を読み返すと、内容としての魔と神の二項対決は率直に言って単純に思われるのはやむを得ない。
時代の趨勢がそうした絶対的な対決では解明しきれないと感覚の中で生きている。というよりも(言いにくいが)その時期からすでに永井豪の世界像は、すでにのりこえられていたもの、という見方をされていたのではないか。
神魔二項の対決を継承した「ベルセルク」が結論を提示しないまま中絶し、本人の「デビルマン」に続く一連の著作も、個々の物語の決着はともかく、神であれ魔であれ、勝利や敗北では説明しきれない、自分の中の神と魔を乗り越える、とか、そうした対決を読者=筆者の自分の中で昇華させる結末には、永井豪もたどりついていないように見受けられる。
その相対化された後世の視点で見ると、永井豪の世界観は単純であり、力強い善悪対決があるものの、個別の作品で神が勝とうが悪魔が勝とうが、それは試合の結果にすぎず、問題は、それを行う自らがそれをどう考えるかを思わせるか否かが永井豪の持ち味で、(ベルセルクはもっと視点が退いているので純粋に物語として眺めていた)そしてそれらの後続の作品も「デビルマン」の象徴的な美的完成には及んでいない。
だが、それは一度でも古典と普遍に達されたのだから、それ一作でも十分な達成と思っているが…。
という訳で、この作品の結末はネタバレるので書きませんが「これが望んでいらした結末だったのか」と満足半分、拍子抜け半分、といった所だろうか。それとも、これが永井豪の持つ人間観であるとしたら、なかなか味わい深い結末ではあるのだが。