しっかりした線の見易い作画で、作者の作風には非常に好感を持ちました。
設楽原の戦いについては、大筋では把握しているつもりなので
それをどう劇画化しているか興味深く読み進めましたが、
いよいよ決戦というところで、本書がすでに古くなった情報、言い伝えを元に書かれいることを知ることになり
それまでの高揚感がすっ飛んで行きました。
決戦が開始される71ページに
「俗に武田騎馬隊と言いますが、戦国時代の日本には”馬に乗って集団で突撃する”という戦術は存在しませんでした。武田軍が馬を利用したのは事実ですが、それは主に、指揮官用や輸送手段としてです。宣教師のルイス・フロイスも”日本人は馬から下りて戦う”と書き記しています」
という記述が有ります。
フロイスが残したこの記述は、関西や九州など、西日本の武士を見聞したものです。
フロイスは東日本への立ち入りは許されておらず、東国武士が馬に乗って集団で戦っていたことを知らずに記録を残しています。
それを日本の武士の全体像として語ってしまっていることに疑問を持ちました。
当時の日本に存在した馬は、現代の馬と違い、胴太のコロコロとした体形で
あまり速く走れそうにないイメージも手伝って、こうした解釈に拍車を掛けたものと思いますが、
武田氏が戦で使っていた木曽馬は、現代でも少数ですが存在しており、
近年、その木曽馬を使った調査が行われています。
現代の成人男子が甲冑をフルに装備して約92kg。
この重量を乗せてどれだけのスピードが出せるかの実験です。
結果は、時速でおよそ30㎞。50メートルを5秒~6秒で走り切る程のスピードでした。
また、小型である故に、小回りも西洋場馬より効くことが分かっています。
作者や監修者も今頃は、出来ることなら描き直したいと考えているかもしれません。
2007年に発売されたものですから文句を言っても仕方のないことですが
版を重ねて現在も販売されていることを考えると、見て見ぬふりを出来ない内容でした。
ちなみに、私の手元にあるのは2010年の第5刷です。
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長篠・設楽原の合戦―歴史を変えた日本の合戦 (コミック版日本の歴史) 単行本 – 2007/11/1
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- 本の長さ126ページ
- 言語日本語
- 出版社ポプラ社
- 発売日2007/11/1
- ISBN-104591097978
- ISBN-13978-4591097977
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
常勝武田軍を完敗させた信長発案の新機軸の戦い。
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著者について
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なかしま たけし 福岡県福岡市生まれ。1988年、『コミックアフタヌーン3月号』(講談社)にて漫画家(PN・近代-このしろ-健志)デビュー。作品名「中尉殿の飛燕」('87冬四季賞受賞作)。コミック版日本の歴史シリーズ(ポプラ社)、アトムポケット人物館シリーズ(講談社コミッククリエイト)など。
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.6
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ベスト500レビュアー
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役に立った
2008年3月26日に日本でレビュー済み
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とても画が綺麗に描かれており、人物の表情までが緻細で分かりやすいです(この漫画家さんは今まで知りませんでした)。近年の研究成果も反映しており、勝頼の最期まで描かれています。一気に読めてしまうので、欲を言えばもう少し掘り下げたところまで描いてページ数があれば良かったと思いました。
ベスト500レビュアー
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信玄亡き後の武田家の凋落を決定付けた「設楽が原の戦い」にテーマを絞って描かかれた漫画です。
私が学生の頃は「長篠の戦」というのが通常でしたが、近年は「設楽が原の戦い」と呼ばれるように変わってきたようですね。
話自体は信玄が死んでから3年経過して、跡取りの四男・四郎勝頼が正式に跡目を相続したところから始まります。
信玄の悲願であった京への上洛を遂げるためには途中の道を塞いでいる徳川家・織田家をどうしても倒さねばなりません。
また、正式な後継ぎとなったことを内外に示すためにも勝頼は積極的な軍事行動を展開し、領土を接している徳川家康と、遠江で干戈を交える。
勝頼の圧力に単独では抗しえない家康は同盟者の信長へ救援を要請し、ここに織田・徳川連合軍と武田家との一大決戦の気運が高まる。
しかし、織田・徳川連合軍が3万人を超える大軍であったのに対し、武田家は半数の1万5,000。
上杉謙信・北条氏政に背後を囲まれている勝頼はどうしても甲斐・信濃に抑えの兵を置かねばならず、武田家の総力を結集しての決戦というわけにはいきません。
兵力差2対1では、明らかに不利なのですが、戦国最強とも唄われた武田騎馬隊への過信や、弱兵と言われた織田家への侮りもあったことでしょう。
さらに新兵器・3,000丁の鉄砲が威力を発揮。
当時、鉄砲は高価で一丁入手することさえ容易ではなかった。武田家にも鉄砲隊はあったのだが、せいぜい数百丁。信長とは比較にもならない。
しかも、織田家は貿易都市であった堺を支配下に置き、鉄砲の産地であった近江の国友などからも買い付けを入れていたので、改良された新式を多数配備。
その辺でも装備に差があり、武田の鉄砲隊とは命中率・弾数でも雲泥の差があった。
勿論、火縄なので戦場で雨が降ると使用できないという決定的な弱点はあったのですが・・・・決戦当日には降り続いていた雨が上がって晴れ間が差してきた。
これまでは武田の騎馬隊がただ無策のまま鉄砲の待ち受ける馬防柵の前に突っ込むことを繰り返していたように描かれているが、この作品ではそういった定説を否定。
馬は指揮官用や移送用として、通常は突撃などあり得ないとしています。つまり、武田の兵士の多くは徒歩による突撃だったということです。
信玄亡き後、将軍・義昭を盟主とする信長包囲網は浅井・朝倉家が滅亡に追い込まれるなどして徐々に瓦解。
信長を「追い詰めていたはずの反信長包囲網側」が、逆にひとつずつ信長に打ち破られて追い詰められていくという風潮になっておりました。
そのことが勝頼の焦りを誘ったというのはあると思います。
信玄以来の老臣たちは連合軍との決戦を避け退却することも考えているのですが、日に日に武田家と織田家の力の差が開いていることを感じていた勝頼は
「捲土重来」を望んで、正に乾坤一擲の賭けに出たことでしょう。
信長はあくまで自分たちは大したことないと武田勢に思い込ませて、武田を挑発し一大決戦に臨ませようとあの手この手を使います。
・老臣の佐久間信盛が信長を裏切って武田家に内応するかのように見せ掛けたり
・別働隊を武田の背後の砦を落とさせるために向かわせて、背後から牽制したり
決戦に持ち込みさえすれば信長は武田軍を「蜂の巣にする」ことは確実だと考えていた。
だから恐れていたのは武田家が考え直して戦場を撤退してしまうことだった。
山岳戦は織田家の得意とするところではなく、その点で退却する武田家を深追いは出来ない。
どうしても武田のほうに決戦を挑ませる必要があり、勝頼はまんまとそれに引っ掛かった結果である。
勝頼にとっての不幸は、親族の穴山信雪らが勝手に戦場を離脱したり、勝頼の指揮に従わなかったり等、統帥権干犯があったこと。
ここで無理押しをせず引けば、確かに有能な臣の多数と貴重な兵を失うことはなかったであろう。
只、織田・武田の国力の差は最早歴然としており、大敗なくともジリジリと武田家は追い詰められる結果となっただろう。
徳川単独では武田家が圧倒しても織田家との戦力差は最早武田家単独では対抗し切れないところまで広がっていた。
これを挽回するには勝頼の父・信玄であったとしても難しかったのではないか。
一縷の望みとしては、「本能寺の変」が史実通りに起きるまで耐えることであったが・・・・これは結果論になるため、勝頼に予測しろと言うのは酷だろう。
秀吉・家康の天下なら武田家も家名を存続を許されたのではないか。
私が学生の頃は「長篠の戦」というのが通常でしたが、近年は「設楽が原の戦い」と呼ばれるように変わってきたようですね。
話自体は信玄が死んでから3年経過して、跡取りの四男・四郎勝頼が正式に跡目を相続したところから始まります。
信玄の悲願であった京への上洛を遂げるためには途中の道を塞いでいる徳川家・織田家をどうしても倒さねばなりません。
また、正式な後継ぎとなったことを内外に示すためにも勝頼は積極的な軍事行動を展開し、領土を接している徳川家康と、遠江で干戈を交える。
勝頼の圧力に単独では抗しえない家康は同盟者の信長へ救援を要請し、ここに織田・徳川連合軍と武田家との一大決戦の気運が高まる。
しかし、織田・徳川連合軍が3万人を超える大軍であったのに対し、武田家は半数の1万5,000。
上杉謙信・北条氏政に背後を囲まれている勝頼はどうしても甲斐・信濃に抑えの兵を置かねばならず、武田家の総力を結集しての決戦というわけにはいきません。
兵力差2対1では、明らかに不利なのですが、戦国最強とも唄われた武田騎馬隊への過信や、弱兵と言われた織田家への侮りもあったことでしょう。
さらに新兵器・3,000丁の鉄砲が威力を発揮。
当時、鉄砲は高価で一丁入手することさえ容易ではなかった。武田家にも鉄砲隊はあったのだが、せいぜい数百丁。信長とは比較にもならない。
しかも、織田家は貿易都市であった堺を支配下に置き、鉄砲の産地であった近江の国友などからも買い付けを入れていたので、改良された新式を多数配備。
その辺でも装備に差があり、武田の鉄砲隊とは命中率・弾数でも雲泥の差があった。
勿論、火縄なので戦場で雨が降ると使用できないという決定的な弱点はあったのですが・・・・決戦当日には降り続いていた雨が上がって晴れ間が差してきた。
これまでは武田の騎馬隊がただ無策のまま鉄砲の待ち受ける馬防柵の前に突っ込むことを繰り返していたように描かれているが、この作品ではそういった定説を否定。
馬は指揮官用や移送用として、通常は突撃などあり得ないとしています。つまり、武田の兵士の多くは徒歩による突撃だったということです。
信玄亡き後、将軍・義昭を盟主とする信長包囲網は浅井・朝倉家が滅亡に追い込まれるなどして徐々に瓦解。
信長を「追い詰めていたはずの反信長包囲網側」が、逆にひとつずつ信長に打ち破られて追い詰められていくという風潮になっておりました。
そのことが勝頼の焦りを誘ったというのはあると思います。
信玄以来の老臣たちは連合軍との決戦を避け退却することも考えているのですが、日に日に武田家と織田家の力の差が開いていることを感じていた勝頼は
「捲土重来」を望んで、正に乾坤一擲の賭けに出たことでしょう。
信長はあくまで自分たちは大したことないと武田勢に思い込ませて、武田を挑発し一大決戦に臨ませようとあの手この手を使います。
・老臣の佐久間信盛が信長を裏切って武田家に内応するかのように見せ掛けたり
・別働隊を武田の背後の砦を落とさせるために向かわせて、背後から牽制したり
決戦に持ち込みさえすれば信長は武田軍を「蜂の巣にする」ことは確実だと考えていた。
だから恐れていたのは武田家が考え直して戦場を撤退してしまうことだった。
山岳戦は織田家の得意とするところではなく、その点で退却する武田家を深追いは出来ない。
どうしても武田のほうに決戦を挑ませる必要があり、勝頼はまんまとそれに引っ掛かった結果である。
勝頼にとっての不幸は、親族の穴山信雪らが勝手に戦場を離脱したり、勝頼の指揮に従わなかったり等、統帥権干犯があったこと。
ここで無理押しをせず引けば、確かに有能な臣の多数と貴重な兵を失うことはなかったであろう。
只、織田・武田の国力の差は最早歴然としており、大敗なくともジリジリと武田家は追い詰められる結果となっただろう。
徳川単独では武田家が圧倒しても織田家との戦力差は最早武田家単独では対抗し切れないところまで広がっていた。
これを挽回するには勝頼の父・信玄であったとしても難しかったのではないか。
一縷の望みとしては、「本能寺の変」が史実通りに起きるまで耐えることであったが・・・・これは結果論になるため、勝頼に予測しろと言うのは酷だろう。
秀吉・家康の天下なら武田家も家名を存続を許されたのではないか。