以前、地元新聞社が発行した歴史漫画には主人公として登場したことはあるが、全国的な出版としてはこれが初めてで、これは画期的な「事件」である。
内容的にも、脚本・作画ともによくできており、歴史考証も細かいところまで行き届き、なかなかマニアックだ。宇喜多氏研究では最前線を行く大西泰正氏の著作が多く参照されており、内容に反映されていて、これがなかなかヨイ。
本書の購読対象となっている子供さんだけでなく保護者の方、さらに多くの歴史ファンや宇喜多ファン、岡山県地域の皆さんにも手にとって欲しい一冊です。
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戦国人物伝 宇喜多秀家 (コミック版日本の歴史 82) 単行本 – 2022/6/22
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備前の大名・宇喜多直家の嫡男として生まれた秀家は、父の死により11歳で家督を相続する。羽柴秀吉にかわいがられ、秀吉の養女(前田利家の娘)・豪姫を妻に迎えた。四国や九州、小田原征討に参戦して秀吉の天下統一を支えた秀家は、文禄の役では日本軍の総大将を務め、慶長の役にも参戦。その後、豊臣政権の最高機関である五大老に若くして就任 し、徳川家康や前田利家らとともに、秀吉亡き後の政権を運営した。順風満帆に見える秀家の運命だったが、関ヶ原の合戦で一変する――。 時代に翻弄されながらも生き抜いた、戦国の貴公子・宇喜多秀家の生涯を描く。
- 本の長さ127ページ
- 言語日本語
- 出版社ポプラ社
- 発売日2022/6/22
- 寸法21.6 x 15.4 x 1.4 cm
- ISBN-104591173968
- ISBN-13978-4591173961
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登録情報
- 出版社 : ポプラ社 (2022/6/22)
- 発売日 : 2022/6/22
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 127ページ
- ISBN-10 : 4591173968
- ISBN-13 : 978-4591173961
- 寸法 : 21.6 x 15.4 x 1.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 129,139位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 810位学習まんが (本)
- - 14,654位ノンフィクション (本)
- - 98,870位コミック
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ベスト500レビュアー
豊臣政権五大老のひとり・備前宰相「宇喜多秀家」の初の伝記漫画が出た意義は大きい。
この男は備前の土豪である宇喜田直家の嫡男として生を受けた。
父の直家は知名度では松永秀久などと比すると大きく劣るが乱世を謀略で乗り切った悪党の名を受けることもある男である。が、その男も病には勝てず没した時にまだ子供の秀家の後見役として後押ししたのが後の「豊臣秀吉」だったのは秀家にとって幸運だったか、果たして不運であったのか。
当時の中国地方は毛利家と織田家が衝突しており、備前はその最前線であったのだ。
宇喜多家は当初は毛利家に属していたのだが、直家が毛利家から離反して織田家に臣従することを決めて秀吉に接近したのだ。
秀吉の後見を得た秀家は秀吉の養子として豊臣政権の重鎮のひとりに祭り上げられていく。
秀吉は譜代の家臣を持っておらず、また親族も少ないという弱点があったので秀家は幼い頃から養育することで豊臣家を支える支柱のひとりになって欲しいという考えがあった。
その後は秀吉の天下統一事業に従って各地を転戦し、朝鮮出兵でも現地に渡海して活躍した。
若干、24歳で豊臣政権の「五大老」に抜擢される。これは他の面々と比較するとどれだけ異例かが判る。
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝はいずれも秀吉に臣従する前は独立した大名もしくは信長に秀吉が仕えていた際は同僚だった者であり、年齢も既に40~50代である。それぞれに戦国の生き残りであり、戦歴も豊富な者たち。
それに比して秀家は人生経験でも戦場経験でも劣っており、明らかに「秀吉のお気に入りでの推挙」という面があることは隠せなかった。
事実、彼は最高権力者の養子で「お坊ちゃん育ち」であることが大きな弱点になる。
加賀の前田利家の娘・豪姫を娶りはしたものの、加賀から来た家臣と元の家臣が対立して争いになると自分自身では解決できずに秀吉の権威で調停してもらわなければならなくなる。
彼が今日まで名を残す「関ヶ原の戦い」では石田三成に呼応して西軍の副将格として最大の17,000の兵を引き連れて布陣した。他の大名たちが碌に戦わない中で宇喜多隊は奮戦したものの、小早川秀秋の裏切りで総崩れとなった。秀家は秀秋の裏切りに激怒して小早川陣に斬り込もうとして家臣に止められたという。
その後は家臣と山中を彷徨い、何とか幸運にも戦場を脱出して海路で薩摩へ逃げ果せた。
もし、戦後直ぐに捕らえられていたら西軍副将ということで「死罪」は間違いなかっただろう。
そして関ヶ原の戦いから2年後に秀家が薩摩に逃れて生存しているという噂が立ち、匿ってくれている島津家に迷惑を掛けないように徳川幕府に自首した。
妻の実家である加賀の前田家や、同じく関ヶ原で敵対しながら既に許されていた島津家その他から「助命嘆願」が提出され、家康も秀家が「策略を弄して徳川家を危機に陥れるような危険人物ではない」事は見抜いていたので、八丈島への遠島で生存を許した。
その後の秀家は八丈島で流人として子供たちや供の者たちと「自給自足」の生活をしていく。
生活は楽ではなく、加賀の前田家から幕末に至までずっと援助を受け続けていた。
岡山57万石の太守から転落して失意のうちに亡くなる・・・・というのがありがちなパターン。
がしかし、秀家は違う。何と八丈島でその後50年に渡って生き延びて連れてきた息子も島で結婚して孫も産まれ、現代にも八丈島には宇喜多家の血筋は続いているのである。
彼は八丈島での苦しい生活で贅沢な食生活や酒に浸るような生活を送れなくなったことが逆に「健康を促進」し、また娯楽も無い島で農作業や釣りに勤しむことで運動にもなったのだろう。戦いに次ぐ戦いであった青年時代から「争いの無い、貧しくも悠々自適の老後」を過ごすことになったのだ。
没年は何と関ヶ原の戦いから55年後の1655年である。勿論、関ヶ原の戦いに参加した他の全ての大名が鬼籍に入っており、「最後の生存者」であった。
ちなみに政治家としては能力に疑問がある秀家だが、関ヶ原の戦いで「関ヶ原に到着したばかりで陣が整わない東軍を直ぐに攻撃すれば勝てる」と石田三成に進言して容れられなかった。戦場での武将としての才覚はそれなりにあったのだ。
いずれにしても流人として50年の歳月を生きる。「備前土豪のしぶとさ」を垣間見た気がする。
この男は備前の土豪である宇喜田直家の嫡男として生を受けた。
父の直家は知名度では松永秀久などと比すると大きく劣るが乱世を謀略で乗り切った悪党の名を受けることもある男である。が、その男も病には勝てず没した時にまだ子供の秀家の後見役として後押ししたのが後の「豊臣秀吉」だったのは秀家にとって幸運だったか、果たして不運であったのか。
当時の中国地方は毛利家と織田家が衝突しており、備前はその最前線であったのだ。
宇喜多家は当初は毛利家に属していたのだが、直家が毛利家から離反して織田家に臣従することを決めて秀吉に接近したのだ。
秀吉の後見を得た秀家は秀吉の養子として豊臣政権の重鎮のひとりに祭り上げられていく。
秀吉は譜代の家臣を持っておらず、また親族も少ないという弱点があったので秀家は幼い頃から養育することで豊臣家を支える支柱のひとりになって欲しいという考えがあった。
その後は秀吉の天下統一事業に従って各地を転戦し、朝鮮出兵でも現地に渡海して活躍した。
若干、24歳で豊臣政権の「五大老」に抜擢される。これは他の面々と比較するとどれだけ異例かが判る。
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝はいずれも秀吉に臣従する前は独立した大名もしくは信長に秀吉が仕えていた際は同僚だった者であり、年齢も既に40~50代である。それぞれに戦国の生き残りであり、戦歴も豊富な者たち。
それに比して秀家は人生経験でも戦場経験でも劣っており、明らかに「秀吉のお気に入りでの推挙」という面があることは隠せなかった。
事実、彼は最高権力者の養子で「お坊ちゃん育ち」であることが大きな弱点になる。
加賀の前田利家の娘・豪姫を娶りはしたものの、加賀から来た家臣と元の家臣が対立して争いになると自分自身では解決できずに秀吉の権威で調停してもらわなければならなくなる。
彼が今日まで名を残す「関ヶ原の戦い」では石田三成に呼応して西軍の副将格として最大の17,000の兵を引き連れて布陣した。他の大名たちが碌に戦わない中で宇喜多隊は奮戦したものの、小早川秀秋の裏切りで総崩れとなった。秀家は秀秋の裏切りに激怒して小早川陣に斬り込もうとして家臣に止められたという。
その後は家臣と山中を彷徨い、何とか幸運にも戦場を脱出して海路で薩摩へ逃げ果せた。
もし、戦後直ぐに捕らえられていたら西軍副将ということで「死罪」は間違いなかっただろう。
そして関ヶ原の戦いから2年後に秀家が薩摩に逃れて生存しているという噂が立ち、匿ってくれている島津家に迷惑を掛けないように徳川幕府に自首した。
妻の実家である加賀の前田家や、同じく関ヶ原で敵対しながら既に許されていた島津家その他から「助命嘆願」が提出され、家康も秀家が「策略を弄して徳川家を危機に陥れるような危険人物ではない」事は見抜いていたので、八丈島への遠島で生存を許した。
その後の秀家は八丈島で流人として子供たちや供の者たちと「自給自足」の生活をしていく。
生活は楽ではなく、加賀の前田家から幕末に至までずっと援助を受け続けていた。
岡山57万石の太守から転落して失意のうちに亡くなる・・・・というのがありがちなパターン。
がしかし、秀家は違う。何と八丈島でその後50年に渡って生き延びて連れてきた息子も島で結婚して孫も産まれ、現代にも八丈島には宇喜多家の血筋は続いているのである。
彼は八丈島での苦しい生活で贅沢な食生活や酒に浸るような生活を送れなくなったことが逆に「健康を促進」し、また娯楽も無い島で農作業や釣りに勤しむことで運動にもなったのだろう。戦いに次ぐ戦いであった青年時代から「争いの無い、貧しくも悠々自適の老後」を過ごすことになったのだ。
没年は何と関ヶ原の戦いから55年後の1655年である。勿論、関ヶ原の戦いに参加した他の全ての大名が鬼籍に入っており、「最後の生存者」であった。
ちなみに政治家としては能力に疑問がある秀家だが、関ヶ原の戦いで「関ヶ原に到着したばかりで陣が整わない東軍を直ぐに攻撃すれば勝てる」と石田三成に進言して容れられなかった。戦場での武将としての才覚はそれなりにあったのだ。
いずれにしても流人として50年の歳月を生きる。「備前土豪のしぶとさ」を垣間見た気がする。